「子供のために遅くまで頑張る先生」

「子供のために遅くまで頑張る先生」は「いい先生」で、定時でさっさと帰るのは、「熱心じゃないダメな教員」だと見下され、軽蔑される。そのような価値観が、学校教育の世界には、根強く残っています。「働き方改革」を阻害するのは、こうしたステレオタイプの教員像にあると私は考えています。

 

学園ドラマの主人公や、マスコミが取り上げるカリスマ的「◯◯先生」(◯◯の中には思い浮かぶ言葉を入れてみてください)などは、ほぼ例外なくこのタイプの教員です。当然ながらフィクションの世界と現実は異なっていますし、全国に100万人以上いる小中高教員だれもが「◯◯先生」と呼ばれるようなカリスマ性などない、いわば「普通の先生」です。もちろん私もそのひとりです。そして、毎週事件が起こるテレビドラマとは違い、毎日は授業と部活動で過ぎていく「普通の日々」です。
 

ドラマのモデルになるようなカリスマ教員を目指すなら、1日、1年のほとんどを、生徒のために費やすべきなのかもしれません。しかし、それは100万人の「普通の先生」すべてに求めるべきことでしょうか。時折起こる緊急事態に、夜遅い時間や土日の対応が必要なことはあります。でもそれは、どんな仕事にもある「普通の」ことです。そうではなくて、問題は、「普通の日々」に「過労死ライン」とまでいわれるほどの長時間労働を実質的に強いられていることです。それを強いているのが「子供のために遅くまで頑張る先生」というイメージなんだと、私は思います。大学進学率が50%を超える現代社会において、教員の仕事は決して「聖職」ではなく、大学を卒業し、資格を得て試験に通れば誰もが就くことのできる「普通の仕事」なのではないでしょうか。

 

「子供のために遅くまで頑張る」ことは、私生活を犠牲にしなければできません。したがって、家庭を持っている人なら、家事や子育ては配偶者(妻)に任せることが暗黙の前提になっています。父は外で仕事、母は家庭で家事と子育てという家庭像が「普通」であった時代には、父親が遅くまで働いていることは問題とは見なされていなかったのでしょう。しかし、現代の「普通」は、そうではありません。多様性を許容する、あるいは多様性こそ豊かさだとする価値観の社会では、父仕事・母家庭の分担も、その逆も、両方フルタイムの共働きも、母子家庭も父子家庭も、子供を持たない選択も、結婚しない選択も、同性のパートナーがいる場合も、すべてが「普通」なんです。だから、「遅くまで頑張る」ことができない環境の人も、気後れすることなく、堂々と胸を張って働けることが、現代における「普通」の仕事です。

 

ワークライフバランスの観点でも、毎日「遅くまで頑張る」のが「いい先生」で、仕事と私生活は分けて、ライフを充実させようとするのは「ダメな教員」と批判されがちです。そこに「定時までは頑張る」という第3の価値観はなかなか入り込むことができません。しかし、その発想が「働き方改革」を阻害します。やはりそれも、教員が「普通」の仕事じゃなく、特別な尊い「聖職」だという考えと裏表でしょう。

 

「教員は特別な仕事だから子供のために無制限に努力をすべき」という価値観を打破し、「教員も普通の仕事だから普通の働き方をするべき」という価値観に立つことが、私の「ひとり働き方改革」の出発点でした。そして、「遅くまで頑張る」ことをやめ、できるだけ定時退勤をすることにました。

 

次回は、「定時退勤をするために」仕事の仕方や考え方をどう変えていったかということを中心に書いてみます。

長時間労働の弊害

一般的な長時間労働の弊害は、いろいろなところで語られているでしょうから、ここでは、学校で働く教員にとっての、長時間労働がひきおこすマイナスを考えていきたいと思います。

 

その最も重要な視点は、「人権への意識」だと私は考えます。

 

法的な位置づけとして、教員に時間外勤務を命じることができるのは、いわゆる「超勤4項目」(校外実習・修学旅行・職員会議・非常災害や緊急事措置)に限定されています。しかし、時間外労働の実態はむしろこれら「超勤4項目」以外にあります。生徒の活動でいえば、まずは部活動が筆頭です。文化祭、体育祭などの行事指導も放課後にわたることが多い活動です。個人面談、補習指導、進学のための講習もあります。また、「職員会議」ではない学年会議や教科会議もあります。緊急事態とはいえないようなちょっとした保護者への連絡を、保護者の帰宅を待って夜に行っている教員も多いのではないでしょうか。

 

これらの仕事は、文部科学省いわく「教員の自発的行為」とのことですから、「勝手にやっていること」だと言っているわけです。善意に解釈したとしても、これは苦し紛れの言い訳です。時間外労働の過労死ライン(月100時間)に達している教員は、小学校で5割超、中学校では8割とのことです。仮にこれを「業務」と見なしてしまえば、国と自治体は莫大な残業代を支払う必要に迫られます。私立学校の場合は学校の負担です。そんなことをすれば財政は破綻しますから、苦し紛れに「自発的行為」と言わざるをえないのでしょう(厳密に考えるには調整額や諸手当のことも考慮する必要がありますが、到底実際の労働時間に見合うものではありません)。まあ、「パチンコは博打ではない」という種類の詭弁だと言って差し支えないと思います。

 

きっと、ほとんどの教員は、これらの「仕事」をよかれと思ってやっているのだと思います。しかし、それこそが問題なのだと、私は考えます。

 

言うなれば、こうした時間外労働は、違法状態にあるわけです。私たちがそれを「自発的」に行なっているとすれば、それは違法状態への加担、助長とも言えるわけです。さらに、それを強要されるような実態があるとすれば、問題はさらに深刻です。私のかつての上司は、定時に帰っている教員をはっきりと「仕事をしないで早く帰る」と批判しました(問題の本質とは関係ありませんが、小さな子供をもつお母さんにですよ)。その反対の存在は、「遅くまで子供のために頑張っている先生」です。その人は今でも管理職をやっていますし、同じような認識の管理職は他にも少なくありませんでした。学校というのは、管理職が自ら違法状態を推奨する、時代錯誤な職場です。

 

「遅くまで子供のために頑張っている先生」というのは、非常に危険な認識だと思います。ずいぶん少なくなりましたが、体罰だって、法で明確に禁止されているにも関わらず、「子供を思う愛のムチ」という言い方で、長く肯定されていました。私はこの2つの問題の根底に、「人権意識の欠如」という共通項があるのだと思います。子供の人権を大切にしない発想が体罰を容認する。労働者の人権を大切にしない発想が時間外労働を常態化させる。子供を育てる学校こそ人権に最も敏感で、それを何より大切にしなければならない環境であるのに、実態はその真逆になっている。恥ずかしながら、かつては私も長時間労働をよしとしていましたし、体罰を行使したこともあります。だからこそ、そういう過去の自分を恥じ、反省しなければならないのだと強く思っています。

 

戦後の学校教育が長期間労働を常態化させてきた経緯は、研究者が明らかにしてくれているでしょう。きっと、やむをえない事情もあったでしょうし、社会が変化、発展してく上での必然だったのかもしれません。しかし、だからといって、現在もそれでいいという理由にはなりませんし、これからの社会が目指す方向性とは明らかに違うはずです。価値観の多様性を認め合い、法と秩序を大切にする社会をつくるために、学校の教員が最も大切にしなければならないのは人権だと私は思います。そして、子供の人権も、働く自分の人権も、どちらも同じくらい大切なもののはずです。だから私たちは、違法状態の根絶を目指し、時間外労働をできるだけ減らしていく努力が必要なのではないでしょうか。

 

次回は「遅くまで子供のために頑張る先生」について、少し掘り下げたいと思います。

学校の「働き方改革」に思うこと

最近、学校教育界隈で「働き方改革」が必要だという動きが活発になっています。直接のきっかけは、中央教育審議会中教審)が8月29日に発表した「緊急提言」にあります。同じタイミングで報道された、OECDの教員の労働時間調査結果も影響しているでしょう。この「働き方改革」の動きは、学校の労働環境と、学校教育の「病理」を変えるための、大げさにいえば「戦後最大のチャンス」だと私は考えています。

 

筆者は、教員歴20数年の、ある私立学校教員です。公立学校にも10年あまり勤めていました。何年か前から、自分の「働き方」に疑問を持つようになり、徐々に「ひとり働き方改革」を進めてきました。今では特別なことがないかぎり、ほぼ定時で退勤するようになっています。休日出勤も基本的にありません。しかし、かつての私は長時間働く自分を誇りに思っていました。若い頃には、早くても21時、遅ければ23時頃まで学校にいるような「働き方」をしていました。今では、そのときとは正反対の考え方をしているといってもいいかもしれません。

 

定時に帰るような教員は、「仕事をしない」とか、「自分本位で周りに迷惑をかけている」とか、「生徒のことを考えていない」といった、負のイメージを持たれているかもしれません。かつては私もそう考えていました。しかし、それは誤りでした。むしろ、定時退勤があたりまえという「働き方」をするようになって、仕事の質は上がったと思っています。やりがい・充実感は若い頃と変わらずあります。授業は新しい理論や知見を取り入れながら、毎年アップデートしています。勤務校で実施している授業アンケートの数値も良好です。クラス担任、校務分掌でも、自分に与えられた仕事はできているはずです。人間関係はそれほど気にするタイプではありませんが、少なくとも表面的には良好なのではないでしょうか。気の合う同僚もいます。内心「気に入らない」と思っている人はいると思いますが、それは以前でも同じだったでしょう。

 

定時に帰るようになった当初は、自分の価値観は多くの教員とは違っているのだから、嫌われようと、煙たがられようと、自分の価値観を信じて行動しよう、とだけ考えていました。誰かの考えで自分の行動を変えられたくはないし、自分の考えを誰かに押しつけることもしたくないからです。個人的なつきあいのある同僚に自分の考えを話すことはありますが、それは居酒屋談義の域を出るものではありません。要は、自分さえよければいい、他人の人生にまで踏み込みたくない、と考えていました。

 

しかし、今年になって、その考え方は変化をしています。最も大きな理由は、先ほど述べた「働き方改革」推進が活発化していることです。「ひとり働き方改革」を推進することは、はじめは逆風の中を歩くような行為だと考えていました。しかし、同じ価値観を共有できる同僚は想像していたよりも多く、とくに若い世代の人たちに共感的に受け止められる経験を何度もしました。最近、この課題について職場で研修会が開催され、その講師の方の主張が、私が考えてきたこととほとんど同じだったことにも、「逆風」がいつのまにか「追い風」になったように感じました。


しかし、いっぽうでは、6〜7割が「過労死ライン」にあるとも言われる学校の勤務環境がそう簡単に解消できないこと、そして、今の「追い風」が一過性のブームに終わってしまうことも危惧しています。中教審の「緊急提言」は「『勤務時間』を意識した働き方」を求めていますが、「勤務時間を守って働く」とまでは言い切っていません。部活動の「休養日を含めた適切な活動時間の設定」によって削減できる時間は、せいぜい月に10〜20時間程度に過ぎません。「勤務時間の管理」は持ち帰り仕事を増加させるかもしれませんし、「統合型校務支援システムの導入」や「専門スタッフの配置促進」が、かえって仕事を増やす恐れもあります。管理職を含めた行政の取り組みに期待するだけでは、根本的な「改革」は見込めないと私は考えています。

 

それでもやはり今は、最大のチャンスだと思います。そのためには、学校で働く教員のひとりひとりが「働き方改革」に取り組み、その輪を広げていくことが不可欠なのだと思っています。名もない私立学校の一教員に過ぎない私が、自分だけで独善的に進めてきた「ひとり働き方改革」が、もしかすると同じような問題意識を抱える日本中の同僚たちのヒントになるのではないか、そんな考えでブログを書いてみようと思い立ちました。書くことによって、私自身の考え方もまた整理され、次の段階に進むことができるような気もしています。「身バレ」をしないように、ある程度のフェイクは入れていきますが、対面ではなかなか言えない本音や恥ずかしいことも、率直に書いていきたいと思っています。

 

次回は「長時間労働の弊害」について書いてみたいと思っています。