長時間労働の弊害

一般的な長時間労働の弊害は、いろいろなところで語られているでしょうから、ここでは、学校で働く教員にとっての、長時間労働がひきおこすマイナスを考えていきたいと思います。

 

その最も重要な視点は、「人権への意識」だと私は考えます。

 

法的な位置づけとして、教員に時間外勤務を命じることができるのは、いわゆる「超勤4項目」(校外実習・修学旅行・職員会議・非常災害や緊急事措置)に限定されています。しかし、時間外労働の実態はむしろこれら「超勤4項目」以外にあります。生徒の活動でいえば、まずは部活動が筆頭です。文化祭、体育祭などの行事指導も放課後にわたることが多い活動です。個人面談、補習指導、進学のための講習もあります。また、「職員会議」ではない学年会議や教科会議もあります。緊急事態とはいえないようなちょっとした保護者への連絡を、保護者の帰宅を待って夜に行っている教員も多いのではないでしょうか。

 

これらの仕事は、文部科学省いわく「教員の自発的行為」とのことですから、「勝手にやっていること」だと言っているわけです。善意に解釈したとしても、これは苦し紛れの言い訳です。時間外労働の過労死ライン(月100時間)に達している教員は、小学校で5割超、中学校では8割とのことです。仮にこれを「業務」と見なしてしまえば、国と自治体は莫大な残業代を支払う必要に迫られます。私立学校の場合は学校の負担です。そんなことをすれば財政は破綻しますから、苦し紛れに「自発的行為」と言わざるをえないのでしょう(厳密に考えるには調整額や諸手当のことも考慮する必要がありますが、到底実際の労働時間に見合うものではありません)。まあ、「パチンコは博打ではない」という種類の詭弁だと言って差し支えないと思います。

 

きっと、ほとんどの教員は、これらの「仕事」をよかれと思ってやっているのだと思います。しかし、それこそが問題なのだと、私は考えます。

 

言うなれば、こうした時間外労働は、違法状態にあるわけです。私たちがそれを「自発的」に行なっているとすれば、それは違法状態への加担、助長とも言えるわけです。さらに、それを強要されるような実態があるとすれば、問題はさらに深刻です。私のかつての上司は、定時に帰っている教員をはっきりと「仕事をしないで早く帰る」と批判しました(問題の本質とは関係ありませんが、小さな子供をもつお母さんにですよ)。その反対の存在は、「遅くまで子供のために頑張っている先生」です。その人は今でも管理職をやっていますし、同じような認識の管理職は他にも少なくありませんでした。学校というのは、管理職が自ら違法状態を推奨する、時代錯誤な職場です。

 

「遅くまで子供のために頑張っている先生」というのは、非常に危険な認識だと思います。ずいぶん少なくなりましたが、体罰だって、法で明確に禁止されているにも関わらず、「子供を思う愛のムチ」という言い方で、長く肯定されていました。私はこの2つの問題の根底に、「人権意識の欠如」という共通項があるのだと思います。子供の人権を大切にしない発想が体罰を容認する。労働者の人権を大切にしない発想が時間外労働を常態化させる。子供を育てる学校こそ人権に最も敏感で、それを何より大切にしなければならない環境であるのに、実態はその真逆になっている。恥ずかしながら、かつては私も長時間労働をよしとしていましたし、体罰を行使したこともあります。だからこそ、そういう過去の自分を恥じ、反省しなければならないのだと強く思っています。

 

戦後の学校教育が長期間労働を常態化させてきた経緯は、研究者が明らかにしてくれているでしょう。きっと、やむをえない事情もあったでしょうし、社会が変化、発展してく上での必然だったのかもしれません。しかし、だからといって、現在もそれでいいという理由にはなりませんし、これからの社会が目指す方向性とは明らかに違うはずです。価値観の多様性を認め合い、法と秩序を大切にする社会をつくるために、学校の教員が最も大切にしなければならないのは人権だと私は思います。そして、子供の人権も、働く自分の人権も、どちらも同じくらい大切なもののはずです。だから私たちは、違法状態の根絶を目指し、時間外労働をできるだけ減らしていく努力が必要なのではないでしょうか。

 

次回は「遅くまで子供のために頑張る先生」について、少し掘り下げたいと思います。